端午の節句(たんごのせっく)とは?

毎年5月5日の端午の節句は、菖蒲(しょうぶ)という音が通じるところから尚武の節供、菖蒲(しょうぶ)の節句とも言われ、勇ましい飾りをすることで男の子の誕生と成長を祝い、武家にとってふさわしいものとされてきました。

更に男の子の節供として盛んになり、武者人形・鎧兜・鯉織(外飾)が飾られ、男の子が生まれて初めての節句にはちまきを食べて、2年目から縁起物として柏餅が食べられています。

「端午」の言葉の由来について

5月5日の節目を端午の節句とも菖蒲の節句とも言いますが、五の字が重なるので、重五の節句とも呼ばれます。

端午という言葉は5月の端(はじめ)の午(うま)の日の意味で、牛を「ご」と読むことから、毎月5日を表すようになり、奇数の重なりがおめでたいとされる考えから5月5日となりました。

江戸時代に5月5日と定まったとされており、男の子のお祝いが結びついて、現在に至っています。

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五月人形の兜・鎧飾りの原点

平安時代の華やかな行事として、朝廷で節会を催し、中務(なかつかさ)宮内に二省から菖蒲を献上し、また皇族や臣下に薬玉(やすだま)を賜り、菖蒲を献する時には輿(こし)に盛り、それを菖蒲の輿と呼んだと言われております。昔から端午の節句の行事には、武張(ぶば)った行事が多く見られました。

この節句を騎射節(うゆみのせつ)とも言い、天皇が射場で近衛の騎射をご覧になったり、公家の邸では平安時代の中頃に下級官人を集めて、射技を催すことや子供たちが大勢集まって甲冑のような装いをして、弓を射て遊んだり、男の子たちの小弓の勝負は近世まで続いたようです。

平安時代の末期頃には、印地(いんぢ)打ちと呼び、石合戦のことで大人が参加することもあり、初めは5月の節句に限られたことではなかったようですが、江戸時代には5月5日の端午の節句の行事になっていたようです。

平安時代、鎌倉時代、室町時代と国内では全国各地で武将同士の争いが絶えなかった時代、菖蒲を主体とした兜が1300年頃に桧の木を薄く削って兜のかたちをしたものが、武家屋敷でも男子出産を祝って飾られたようです。

その後、江戸幕府15代将軍徳川慶喜までの約280年の間に戦争もなく、大陸文化の移入など平和な時代に入って、日本のすばらしい文化や芸術古人からの古事や遺跡を守りつつ、急激に発展しました。

武者人形の登場で人形が男の子の節句の飾りとしては、江戸時代の初期からおこなわれ将軍家の端午の行事にも寛永19年5月5日に江戸時代での端午の節句には諸大名より献上する菖蒲兜がたくさん飾られたと残されており、将軍家の端午飾りは2年後の1644年の端午の節句に江戸城に登場した林羅山(1583~1657年)がその見事さを語っています。

その後、町衆にも移行して、当初は外飾りが圧倒的に多く、1800年頃までは大型のものが多かったようですが、江戸時代の後期になると、鎧飾りが飾られるようになり、これは戦国時代の武将の着用した模写が多いようですが、兜飾りと併行して安政2年頃から甲冑飾りができており、現在も端午の節句の主流として大鎧飾りが続いています。

平安時代から江戸時代の五月人形飾りの移り変わり

男の子の健やかな成長を願い、鎧兜や武者人形を飾って邪気を払ったり、菖蒲湯につかったり、ちまきや柏餅を食して祝っていたようです。平安時代の宮中や庶民は、5月5日に厄よけのために菖蒲を軒の瓦の下にさしたり、家の玄関先につるしたり、競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)の観戦にいった後、年菖蒲という字の読みが「尚武」に通じることから菖蒲でつくった兜を飾るなど、武家の祝うところとなり、江戸時代には外飾りで大衆に観覧してもらう飾りが徐々に内飾りへと男子出生の端午の節句として定着し、現在に至っています。

家の中に兜や鎧を飾るのは、昔の武家社会からの風習ですが、戦いのときに身を守る防具は、交通事故や病気から子供の身を守るという意味が込められており、男児の無事と成長と幸せを願って飾ります。

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